子育てと余裕 #237

f:id:toushiblog:20190313074816j:image

先日自分のSNSにこんな投稿が回ってきました。僕もさっと読んだだけなのですが、なんとなく要点はつかめました。それは子育てをしている母親が世の中にはある言説のどれを信じていいのかわからないといった内容で、そこから発展して信者ビジネスへの批判のような内容になっていたようでした。

まあよくはわかりませんが子育てのコミュニティに属していたのかもしれません。なんとなくですけど想像ができます。要するに子育てに困っている人を囲ってそこで意見交換をするわけですが、そこのコミュニティに疑問を感じたのでブログに書いた、といったところなのだと思います。

 

まず僕が感じたのは上から目線になって申し訳無いのですが“疑問を持つ”ということがとても良いことだと思いました。そこのコミュニティがどんな内容のことを話しているのかは知りません。しかしそこでなんの疑問も持たずに、それこそ信者になっているよりはこうやって疑問を持つということはちゃんと自分の考えを持っているということだと思います。自分の考えをもつとそこにメタ的な視点を持つことができます。これってそもそも何のために存在しているのか、などなどです。

そして自分で考え、調べることによって何が正しくて何が間違っているのか更に考えることができます。

 

ここでもやはり“余裕”が必要になります。考えたり、もしくは一旦そこから抜けるといったこともやはり余裕がないとうまくいきません。余裕が無いと余裕を生むことの意味を見出すこともできなくなります。そしてもっと酷くなると余裕の無い自分自身を好きになってしまうこともあるのかもしれません。

人は誰しも自分を肯定されたいものです。余裕なく頑張っている人を周りが持ち上げて褒める、すると余裕なく頑張っている人はそんな自分がなんだか誇らしくなって、更に頑張ろうとしてしまうのです。

 

もちろん僕は子育てをしたことがないので“そこは違う”などという点はあるかと思います。

だけど余裕を持つということの大切さは一緒だと思います。僕の母は早い段階で父と離婚していました。そして勉強ができなかった母は 車の免許を持っていませんでした。ですから隣の家の僕の同級生の母親に雨が降った日だとかしょっちゅう僕の家まで車に乗せていってもらったことを未だに覚えています(車の中で雷に怯えていた僕にいつも声をかけてくれました)。今でも隣の家の同級生のお母さんには感謝です。

でもそれって今考えるとその隣の女性はやっぱり僕を家まで送っていく余裕があったんですよね。そしてそれを社会が許していた。今の社会だとそれが許されるのかとても微妙なところです。ひょっとしたら当時の社会は社会全体で余裕を持っていたのかもしれません。

余裕のある人は余裕の無い人に余裕をおすそ分けできる社会が本当は必要なことなのだと思います。そうすることによって余裕の無い人に少しずつ余裕が生まれてくるのだと思いました。

 

子育ては本当に大変だと思います。だけど、だからこそ余裕を大切にすることが、必要なことだと思いました。

今日もブログを読んでいただきありがとうございます。

僕はまだ子育ての経験が無いです。だから想像で書いている部分もたしかにありますが余裕を持つべきである、という点については同意いただけると思います。

余裕を少しずつ生む方法、是非色々考えてみてください。

それでは今日もみなさまにとってより良い一日になりますように。