3月11日、遠くの人を想う #236

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3月11日、僕はテレビの前でその震災の光景を見ていた。大きな揺れのあとの津波。まるで何もかもが簡単に流されていく。さながらまるでおもちゃのように、あるいは何か掃除されるかのように押し流されていく。そして僕はそれを呆然と眺めていたのだ。

その日から一ヶ月、二ヶ月と日にちが経つにつれて僕の中であの日の震災は少しずつ遠ざかっていった。そして事態はどのようにしてその後の原発の処理するのか、どのようにしてその後そこにいる人たちをケアするのかというゲームに移っていった。ゲーム、そう僕にはそれがゲームに見えた。どうすれば効率よくそこにあるものを終えるのかというゲーム。

そして八年が経って僕にはそのゲームが終わっているように思えない。まだずっと続いている。

 

僕の中で一つ大切にしていることがある。それはもしかしたら政治的な立場にも繋がるかもしれない。だからあまり大きな声で言いたくは無かったが敢えて言わせてもらう。それは“いかに遠くの人を想うのか”だ。想像力を持っていかに遠くの人を想うことができるのか。

遠くの人を想うには想像力が必要で、想像力を養うには考えることが必要で、そして考える力を養うには学ぶことが必要だ。だから僕は学ぶことが大切なことだと考えている。

 

あるいはこんな意見もあるだろう。

「自分自身や自分の身の回りを大切にしなければ遠くの人を想うことなんてできるはずない」

それはその通りだ。だから僕は両方大切だと思う。だけど自分を大切にするあまり遠くの人をどうでもいいだとか、ましてやシャットアウトするだとか、あるいは遠くに追いやってしまうということはぼくには到底できない。自分自身ももちろん大切で、自分の身を持ち崩してまで何かをしようとは思わない。

だけどそれはそれとして僕は遠くの人を想い、そして小さなことでもいいから何かをしようと思う。

 

誰かに“そんこと意味がないよ”と笑われたっていい。僕はその誰かのために何かをしているのではない。遠くにいる人たちを想って何かをしているのだ。遥か、遥か遠くにいる人。その人は今何を思っているのか、何を考えているのか、だったら何をすべきなのか、どうすれば良いのか、ふと考える。

そんなことをゆっくりと考えるようになったのは東浩紀さんや宇野常寛さんの考えに触れたことが大きかった。僕にはその二人が少なくとも政治家よりは遠くの人を想ってると思えた。いやもっと強くもっと強く遠くの人を想っていた。

今日この記事を書くことができた。それはたくさんの人に感謝するけど、とりわけこの二人には感謝しているし、僕を成長させてくれたと心から思っている。

 

3月11日、遠くの人を想う

 

今日もブログを読んでいただきありがとうございます。

本当は昨日書くべき記事だったのかもしれませんが諸事情により今日になってしまいました。でも考えてたことは書けたと思います。拙い文章ですが僕のある種の態度表明になればと思います。

それでは今日もみなさまにとってより良い一日になりますように。