エッセイに触れる、エッセイについて考える #230

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今、東浩紀さんの『ゆるく考える』を読んでいます。“読んでいる”というのはもちろん読みながら文章を書いているという意味ではありません。そうではなくてまだ読了していないという意味です。だからまだ途中なのですがやはり買ってよかったと思いました。以前の記事にも書いていたように僕はビジネス書に少し飽きていたのです。ビジネス書に書いてあるような内容とはまた違った角度からものを考えている文章を読みたいと思いました。そしてこれは僕の勝手な考えなのですがやっぱりビジネス書って若者のためにある本のような気がするのです。だからビジネス書に飽きてくるというのはある意味自然の流れなのかもしれません。

 

エッセイにはその人がその時に考えたことが書かれているように思えます。即時性があるのです。もちろん全てがそうだとは思いませんがやはりその瞬間思ったことが書いてあるように思うのです。だからその書き手のパーソナリティを知ることができますしまた生活感がある文章になる気がするのです。

今回の東浩紀さんのエッセイはそこまで生活感のある内容ではないです。まだ途中ですがしかし東浩紀さんがその時、その瞬間に考えたことがダイレクトに伝わる内容だと思います。

 

ビジネス書を読んでいたらたどり着くことのない内容もあったと思います。例えば廃仏毀釈なんて言葉ビジネス書を読んでいるだけだと僕の生活だと知ることはなかったと思いますし、日本でどのようなことがあったかなんてWikipediaで調べることも無かったと思います。他にもソクラテスプラトンの師弟関係もそうです。その二人の師弟と古代ギリシャでの民主主義による顛末も僕の中では学びでした。結局人間って紀元前の昔よりずっと同じことをやっていてそして今も同じことをしている。それがたとえ成熟した民主主義であってもで同じです。もしかしたらこの先も同じことをし続けるのかもしれません。

 

東さんはひと時福島の原発跡を観光地化しようとされていたはずです。その意図はたしか観光ぐらい自然にふらっと立ち寄ればその方が自然と物事を知ることや受け入れることができる、という考え方だったと思います。それがある種の中間距離性(言葉が適切かどうかはわかりません)だとしたらこの本ももちろんそうだし優れたエッセイというものが持っている特性なのかもしれません。ぴったり寄り添うではなくだからといってものすごく遠くでもない、そんな距離感です。

この本を僕はまだ読み始めたばかりです。これからしばらくば東浩紀さんがどのようなことを考えどんなこと悩んだのかを知り、そして僕も僕なりに考えたいと思います。そしてそれを自分の生活を送る上でその生活の奥深くに潜ませておくのです。ビジネス書では決して得られない学びだと思います。

今日もブログを読んでいただきありがとうございます。

今“なんとなく考える”というChapterに入っています。急に書いてあることが難しくなって戸惑いますけどなんとかひとつひとつ考えながら読み進めています。わかりやすさだけが正義ではない。わからなければ考える。そうやっていま僕は本を読み進めています。

それでは今日もみなさまにとってより良い一日になりますように。